明治31年 多賀谷橋架橋渡初式

明治31年 多賀谷橋架橋渡初式
画像をクリックすると大きな画像で表示されます

脇に達筆な文字で「多賀谷橋架橋渡初式」と書かれているだけで、実は正確な時代が不明なこの写真。
いつの時代に撮影されたものかを判別するために、手持ちの資料を漁ってみると、田村 信三先生著「地誌 広町」の年表に以下の記述が見受けられます。

明治三一年(1898) 多賀谷橋、長浜間県道改修す

また、ヒロ電子サービス(の息子)さんからお借りした、市政100周年記念「呉の歩み」の年表部分には

明治三三年(1900) 5月6日 広村の多賀谷橋において阿賀〜広〜郷原間県道開通式

との記述が見受けられます。ですので、この写真は明治31年、西暦1898年に撮影されたと判断してほぼ間違い無さそうです。

写真を詳しく見てみましょう。

多賀谷橋の上には、地元名士でしょうか。男性は紋付を着て帽子をかぶり、女性は着物姿。

橋の欄干支柱部分に「ひょうたん型」の支えが取り付けてあるのもおしゃれですね。

また橋の中央部に見えているのは、軍の士官の姿でしょうか。

対して、庶民は橋の下。川原に下りていると思われます。
女性は日本髪に傘を差し、男性は坊主頭。子どもは制帽を被っています。

撮影した方角が判別できないのですが、恐らくは奥の方角に吉松山が見えているのではないでしょうか。
建物のあたりが、現在の中新開交番界隈と言うことです。

では、現在の多賀谷橋を見てみましょう。
以下の画像は2005年6月24日に撮影していたものです。

極力、同じ方角を意識して撮影したもの。現在の多賀谷橋西詰から撮影です。

奥にヒロ電子サービスさんが見えており、左端に鮮魚の呉聡さんが見切れています。

橋そのものを呉聡さんの横から見てみましょう。現在では、クルマ2台分ほどの短い橋になっています。

「地誌 広町」の年表によりますと、

昭和三五年(1960) 広東大川廃川敷埋立工事着工。

との文字が見受けられます。川幅の広かった広東大川は廃川となり、川幅は大幅に縮小され、現在に至っております。

 

出典:

掲載:2006年5月4日