明治43年 賀茂郡広村の公会堂と教育第一の碑

かつて広には「公会堂」と言う建物がありました。場所は今の広小学校の正門前。
今は無き、その公会堂の貴重な写真が私の手元にあります。
(写真は、随分と以前におもしろい堂店主「おやじさん」より拝借させて頂いている物です)

下の写真は、その公会堂で開催された行事の記念撮影の写真です。

広村公会堂
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建物上部の木組みが美しい立派な建物。書籍:呉市制100周年記念版『呉の歩み』(呉市史編さん室編)の巻末年表には『明治42(1909)年12月 広村公会堂設立』と書かれています

また、別の書籍:地誌 広町(田村 信三 先生 著)の巻末年表には『明治42年(1909)年 教育会組織。三十七、八年戦役記念公会堂成る。各地区青年会、処女会組織。』との記述があります。37、8年の戦役と言えば日露戦争のことであり、日露戦争に勝利したことを記念して建てられたと言うことでしょうか。
『明治43年(1910)年 内務省より模範村として選奨せられ金千円を賜る。』とも書かれております。一般的には「公会堂は広村が模範村として表彰された記念に建てられた」と言われています。

では、この写真を部分的に見てみましょう。公会堂の入口部分をズームアップ…
右側の看板には『賀茂郡廣村公會堂』、左側の垂れ幕に『第二回広村處女大會』と書かれています。女性は皆さん髪を結い着物姿。

 第二回広村處女大会

處女(処女)大会と聞くと、現代の表現ではちょっと微妙なニュアンスを受けますが、手元にあるもう一枚の写真には、同時期に開催されたであろう「第二回青年大会」で男性が大勢写っている写真もありますので、どうやら處女(処女)大会とは現代で言うところの婦人大会と言うか女性大会のようなものではないかと思われます。

明治42(1909)年に公会堂が建設され、第二回の処女大会開催の記念撮影であることから推測して、この写真は公会堂建設翌年の明治43(1910)年の撮影ではないかと思われます。

写真右上部分を拡大してみましょう。遠くは名田山のふもとまで続く田畑。右手より続く並木は、広東大川の土手に植えてあった松並木でしょうか。

 広村の田畑風景

左下の部分、万国旗に相当するものなのでしょうか?日章旗と、何故か「ゾウ」の絵が掲げられています。

肝心の広村公会堂、上部の中心部分。放射状に組まれた木組み。当時としてはかなり「ハイカラ」な建物で、村民自慢の建物だったことでしょう。

教育第一の碑

では、公会堂はいつ頃に取り壊されたのでしょうか。その事実は、公会堂の前にあった「教育第一」の碑で分かります。

教育第一の碑

教育第一碑の裏面には大正十一年十二月十日と彫られてます。また、左手前にある説明の碑には以下のように書かれてます。

この碑は大正十一年
学制発布五十周年
記念して もと広公会堂の
前に模範村をつくった
不文の村是として建立
されたものを その敷地が
道路用地になったため
昭和四十四年八月
移転したものである

呉市長 奥原義人

地誌 広町にも『昭和44(1969)年8月9日に広青年教育センター落成』と書かれており、人々が集う場所としての役目を教育センターにバトンタッチしたのでしょう。

また、公会堂の前には、教育第一の碑と共に、大きな蘇鉄(ソテツ)が植えられていたそうです。その蘇鉄も広市民センター(旧・教育センター)に移植され、文化財となっています。

公会堂があった場所の現在の姿

この場所に公会堂があったことを示す碑が広郷土史研究会によって建てられております。

広公会堂跡地の碑

広小学校、第3校舎の3階(音楽室)より眺めた、公会堂跡地の様子。(2007年6月24日撮影)

広村公会堂跡地の今の姿

公会堂があった名残として今も残る石垣の一部。

広村公会堂の石垣

昭和42(1967)年生まれのこなきですが、公会堂そのものの記憶は全く無く、この場所は長らくの間空き地だったことを覚えてます。また、公会堂裏手にある、今のゲートボール場の場所に保育所(後に中新開の市営住宅に移転)があったことは良く覚えています。

立派な木造りの建物が無くなり、そして今は教育センターも建替えられ、時代の移り変わりと共に住民の集う建物の遷移を感じることが出来ます。ただ、古い物を壊す前には、記録をちゃんと残しつつ、後世に残すべきものは残しつつ…お願いしたいものです。

2007年10月9日 追加