名田地区探訪

子供の頃より馴染みが深く、早めに紹介したいな。と、思いつつもなかなか紹介できなかった場所。広駅のスグ横にある地下道である。撮影は2006年2月11日。ちよっと天気の悪いこの日に、犬の散歩がてら歩いて探索じゃ。

また、名田にお住いの"あらさん"に聞いたことも含めながらのご紹介です。

広駅下の地下道、通称:名田トンネルへの下り坂。トンネルとは呼ばれているが、いわゆる「ガード下」って言うか「地下道」って言うとこかな。

左側に見切れている建物は有料の市営駐輪場。

 

蛇足ですが、名田は「なだ」と読みます。
名田を'みょうでん'と読むと違った意味になります。

短い坂を下って、広中町側の入口。2枚の看板が見える。

バイク、自転車は降りて通行して下さい。

呉市・広警察署
広町名田自治会
広町名田女性会

BV
60K 260M
桁下 1M600

 なぜ、ココを通る時はバイクや自転車は降りなくちゃならないのか。

そう。知ってる人は知っている。

ここのトンネルは高さがめちゃめちゃ低く160センチしか無い。だから「桁下1M600」と書かれている。

が、トンネル距離は260メートルも無いな。60メートルじゃないかな?

この時、たまたま通りかかったこの女性は小柄だったから、普通に歩いていたが、身長167センチの私は当然、首をかしげて歩くようにならざるを得ない。

名田側の入口からも撮影。

こうやってみると、トンネル上部から線路までの「厚み」がとっても薄いことが良く分かる。

白い欄干のすぐ下は川なんよ。

ここまで書いてて、ようやく分かった。ここのトンネルが低い理由が。

上は線路だから、これ以上トンネルを高くすることは出来ない。線路が盛り上がっちゃうから。
下は川だから、これ以上掘り下げられない。水が入ってきちゃうから。
事実、雨が良く降ると冠水しちゃうらしい。

だから、名田トンネルはこんなにも低いトンネルになっちゃったんじゃね。

名田側から出たところ。川を渡って、まーっすぐ行くと名田の地へと至る。

また、左右にはスロープがあって上の道路へと上がることが出来る。

上の写真のまーっすぐな道を抜けると、右手に公園がある。それが名田公園。

とても広い公園なんよ。「だだっ広い」と言う表現が正しいかも知れん。

広い割りには少ない遊具の中で個性的なのが、このふたつ。

両方に坂のある、すべり台。
その奥に見えるのは、乗るところがベンチ風のブランコ。

このテのブランコは、ラーメン豚太郎の裏手にある公園でも見かけるが、両方に坂のあるすべり台はここでしか見られない。

こちらは、公園に隣接する名田保育園。建物の形がユニーク。

公園とは裏腹にこちらは敷地面積がかなり窮屈そうで、ちょっと可愛そうかな。

保育園を過ぎて、螺山方向に細い路地を歩いてみる。

その路地はゆるやかに登り、螺山山頂へと至る雰囲気。

途中の土蔵もいい雰囲気を醸している。

土蔵をちょっと過ぎるとユニークな光景に。

山肌をセメントの吹き付けで覆っているんだけど、何故か丸ぁるく穴が開いている。

何の意味があるのか…

 

で、更に登ると景色の良い場所に出る。ちょっとだけお墓がある横を失礼して撮影。
下の画像をクリックすると大きく表示されます。

この足元の螺山は、広工廠に隣接していたから防空壕が沢山ある。以前、あらさん と以前に行った名田の防空壕探検も、ここで紹介しておきましょうね。

あらさんのお宅から歩いてスグの処に戦時中の防空壕跡が残っている。

螺山の下には巨大な防空壕があり、その中では戦時中の軍需工場があったと知られている。今の産総研中国センター(旧:中国工業技術研究所、瀬戸内海の大型模型で有名)がある場所は、零戦などの戦闘機を作っていた場所であった。その施設の一部は地下壕の中にも工場があったらしい。地下壕の入口は産総研側、広駅側にもあり、恐らくは長浜(峠)側にもあったのではなかろうか。

幾つかある防空壕の入口の殆どは立入り出来ないようにコンクリートで塞がれている。
唯一開口部が残っている大きな入口。下部は3メートル程の高さまでブロックで塞がれているが上部は開口している。

前面に張り出したブロックの部分に足を掛けて登ってみることに。意外と高いので、あらさんの肩を借りないと登れない。

内部は薄暗く気味の良い場所ではない。60年前のここでの出来事を想像すると尚更である。

手前にはゴミが多く投げ込まれている。一斗缶やチャンネルをガチャガチャと回していた頃のテレビなどが見受けられる。通路様になった内部は岩肌そのままで、セメント類で補強された様子は無く、幅は3メートル高さは5メートルはあろうか。かなり大きい。この画像では分かり辛いが一番奥は突き当たりになっており、右に直角に曲がっているようであり、その突き当りまでは30メートル程である。
この先をずっと行くと、かつての地下要塞に至るのであろうけれど、今となってはとても危険であり、内部を探ることは絶対に出来ない。

合掌。

そうそう、あらさん から聞いた、名田の地名の由来。名だたる田んぼでおいしいお米がたくさん取れる田んぼがあったから「名田」と呼ばれるようになったと。また、あらさんの奥さんからは、名田トンネルは戦時中には防空壕としても使われていたと聞きました。トンネル内の足元には水路を塞ぐセメント製の蓋がありますが、人々はそのセメントの蓋を外して中に入り、水に浸りながら空襲から避難していたそうです。

広の平野部のほとんどは、大林源蔵に代表される埋め立てによる土地ですが、名田は螺山のふもとに広がる、数少ない埋め立てではない土地であったと考えられます。そのせいか、名田の路地裏を歩くとなんとも懐かしい雰囲気のする街角です。
今回は時間の関係で、サラッとしか散策できなかったけれど、今度ゆっくりと名田を歩いてみたいな。

掲載:2006年2月18日