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ちょっと古い画像なのですが、99年7月9日に広と仁方の境に位置する「吉松山」に歩いて登りました。その時の画像を登った順路に沿って紹介します。
am9:07 |
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善通寺の付近で見つけた地番表示→ |
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am9:21 しばらく登ると「巨岩」がお出迎え。この後もしばしば大きな岩を見かけました。この辺の地質のせいかな?タテヨコに綺麗に入ったスジが不思議。岩の上の部分は田んぼでした。 |
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am9:25 巨岩をちょっと登って振り返ると採石場が良く見えます。私が子供の頃は、岩肌はこんなにも多く見えなかったと思うのですが… |
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am9:31 さらに登るこんな奥まで田んぼがあるんだな、と感心してしまう程の量の田が… その一つ一つが多くの石で積まれた石垣で、これがまた綺麗に積んであるんだな。 |
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am9:47 ズンズン登って、いよいよ舗装道の峠まできました。この道なら車で通行できるし、このまま行くとあっさりと仁方に降りてしまいます。 吉松山に登るには、この画像の右側に見える山道を登って行きます。 |
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この峠付近では、こんな物騒な標識が見えました。この辺で鉄砲撃つ人がいるのでしょうか?→ |
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am9:57 こんな山道を登って行きます。当初思っていた程、山道が荒れていなかったのが意外でした。 途中に幾つもの木々に「中国電力」の札が掛かっていました。その謎は、この後知ることに… |
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途中、こんなのも迎えてくれました。→ |
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am10:19 未舗装の山道を歩くこと約30分。巨大な建造物が突如目の前に! これは何なの!と、足元を見るとこの標識が… そっかー。それで、ここまでの山道に「中国電力」の札が掛かっていたのかー、と納得。中電の職員の方がここまで点検に来る道しるべだったんですね。ご苦労様です。 私の父曰く「ありゃー、大広にある中電の変電所が無線交信用に建てちょんよのー」と言ってました。ホントかな? |
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am10:34 反射板から10分ほどで、いよいよ山頂付近に到着。子供の頃「吉松山のてっぺんには高射砲跡がある!」と、父からは聞いていましたが実物を見たのは、当然これが初めて。 一つの砲台跡は直径が10メートルほどでしょうか。しかしご覧のように草に覆われ荒れ放題。砲台跡は全部で4つ。戦時中は、この場所まで車で登れたそうで、砲弾なぞを運んだのでしょう。 平和な世の中ですが、戦争があったと言う事実は、こうやって私達のすぐ近くに残っているのだなと思う。 思わず合掌。 |
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am10:41 高射砲跡のすぐ隣に、何やら面白い形の岩が。パカン!と割ったようなスジが十字に走ってます。この岩に関して父は「昔の言伝えで『吉松山のてっぺんには笠松って呼ばれちょった立派な枝ぶりの松があったんじゃ。そこには天狗も住んどって、その天狗が笠松からこの岩に飛び降りた時に高下駄の跡が残った…』ゆうて言いよった」と昔話をしてくれました。 なるほど、そう言われて見ればそんな風にも見えるような、見えないような… 横の木には、こんな看板が↓ |
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am10:43 しかし、山頂からはほとんど広町は見えない!! わずかに広駅方向がちょっとだけ見える程度。 がっかり… と、思いきや、少し先に進み山を下る方向に向かうと大きくせり出した岩があり、そこに登ると絶景が… am11:02 |
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am11:27 下山道は幾つかありましたが、仁方側に下山して行くと途中に今にも決壊しそうな石垣が。石の積み方がかなり雑なせいでしょうか。これが戦時中のものかは不明。 |
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am11:48 さらに下ると道も舗装道に。周囲は田畑もあり、道標的なこの岩は一体… |
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pm0:16 やっと民家周辺まで下ってきました。この辺りは、仁方のナニ町って言うのかな? はるか向こうに工事中の安芸灘大橋が見えます。 |
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pm0:20 仁方隋道の古い方のトンネル、仁方側です。7月でも中はヒンヤリ。 ここを通り抜けて我が家へ帰宅。 時刻は13時ちょっと過ぎでした。 |