両谷の名物をふたつ...

広の中心部から北東に位置する両谷。吉松山のふもと、船津神社の南東側に位置する地域です。
この両谷に、とても感じの良い建物があるので撮影してきました。

春の三木谷医院 そう、ただ撮影するだけならいつでも良いのだけれど、この日を待っていました、2007年4月6日。
広町で桜の咲く日を待っていたのです。

桜をバックに、この建物を撮影したかった。
両谷2丁目にある、三木谷医院の建物です。
三木谷医院の布袋さん
敷地内にちょっとお邪魔して拝見。
ここは、呉のフィルムコミッションでも、ロケ地候補として載っているほどです。

立派な布袋さんの像に向けて段が付いているのは謎...
三木谷医院 更にお邪魔して、奥行き部分を撮影させて頂く。
正面から見ただけでは気が付かなかったけれど、結構奥行きのある建物。

昔の小学校の木造校舎のような造りですな。
三木谷医院 診療案内

診療案内の看板もレトロ...

三木谷医院 レトロカー

裏手にもお邪魔すると、またもやとってもレトロな…

って、これはサニーかカローラ???

三木谷医院、昔の門柱

庭の脇には古い門柱がありました。今は使われていない門があった場所。表札をえぐり取ったような穴が開いていますが、ここに何て書いてあったのかがとても気になります…。

レトロ溢れる、三木谷医院の建物。

詳しい文献資料を見たことはないのですが、色々聞くところによると、この建物は戦時中の陸軍の病院施設だったらしいです。
?陸軍第八病院?

建物の由来についてご存知の方、情報をお寄せくださいな。
2007年7月6日追加 : 地図子 さんからお寄せ頂いた情報

三木谷病院の前身について
昭和15年(1940年)秋まで 広海軍共済組合病院 でした。 広海軍工廠医務部によって 大正10年代に建てられた と聞いています。 昭和15年秋には 大新開に病院が新築されて そちらに移転しました。 今 広警察署になっているあたりです。
築後 85〜90年近い木造建築  戦争にも生き残って しかも病院として 立派に現役中!
広の誇っていい 文化財じゃないでしょうか。

さて、両谷2丁目に移動です。

両谷の廃バス

ココにあるのは、草に覆われた廃バス。

私が小学生の頃。かれこれ20年以上も前から、このバスはココにあったと覚えています。

両谷の廃バス

ただ、当時はココまで荒れ果ててはなかったし。○○○治療院のような看板が掛かっていたと、うっすら記憶しています。

興味深げに覗き込んでいる子どもの姿と大きさを比較してみてほしい。

廃バスのヘッドライト部 部分的に見てみると、この物体がバスだと言うことが良くわかりますね。
両谷の廃バスはいすゞ製 覆われた草を除けて、フロントのエンブレムを見てみると、「いすゞ」の文字が。
廃バスは三角州に 別の角度から見てみると、三角州の真ん中みたいなところに置かれていて、ちょっと不思議。
廃バスの乗降口 しかし、幾ら古いとは言え、「ボンネットバス」ではないし、出入口が前にしかないことを考えると、路線バスではなく、観光用などの貸切バスだったのか…
廃バスの内部 カメラを高い位置に持ち上げ、恐る恐る車内を撮影してみた。
想像通り、内部は荒れているなぁ〜。

不自然な形に置かれたシート。リビングをイメージした配置なのか…?
年代の割りにちょっと豪華っぽいシートからして、やはり路線バスではなさそう。

両谷自治会館 この廃バスのすぐよこにあるのが、両谷自治会館。寺子屋をイメージしてしまいそうな建物。
両谷の水田、船津神社方面 その両谷自治会館のヨコから見た吉松山方向。
水田の緑の稲が美しい季節です。
Google Earthで見た両谷

両谷界隈をGoogleEarthで見てみました。廃バスがあった場所まで、吉松山の尾根が張り出しており、そこを境に2丁目と3丁目が分かれています。両谷の名前の由来というのは尾根を境に谷がふたつあるから両谷と聞きました。船津神社側の谷(今の3丁目)は「船木(ふなーぎ)」といって、昔は今の境内付近に船つき場があり大木のむきだされた根に船をくくりつけていたそうです。(船をくくりつける木だから船木)
張り出した尾根(自治会館や廃バスのところ)を境に三木谷病院側の谷(今の2丁目)は「津江迫」といってました。

また、広甘藍の最盛期は今のJA広東支店が日本のキャベツ相場の基準だったそうです。

両谷は、広本町や大新開などの中心部からちょっと距離があり、古い町並み、田畑がまだまだ多く残り、人情味溢れる土地ですね。私の小学生時代の友人が居た事もあり、子供時分は良く遊びに行ってました。彼は元気にしているんだろうか。M君。

撮影:三木谷医院=2007年4月6日、廃バス=2007年6月25日
掲載:2007年6月30日
追加:2007年7月6日