父と母と子

この日曜日、こなきの実家に帰った。
帰ったと言っても、自宅から徒歩5分も掛からないところに両親の住む実家がある。

こなきは江田島の産科で生まれ広でずっと育った。こなきの自宅がある場所に当時築70年ほどの古家があって、その家から徒歩5分ほどのところに水田があった。その水田で父は会社勤めしなから稲を育てていた。

古い農家造りの家の「離れ」には耕運機が納められており、シーズンになると耕運機のディーゼルエンジンが唸って田を耕していた。幼少のこなきは、その耕運機に乗って田に行くのが好きだった。秋になれば「はぜ掛け」し脱穀したコメを入れておく蔵は、その耕運機が納められていた場所の隣。薄暗くて扉ではなく、板を上から落とし入れて閉めるようになっていた。蔵と言うよりも、押入れみたいなその一角の広さは半畳ほどか。

その蔵は子ども時分のこなきには、薄ら暗い場所にある何とも気味の悪い場所であり、こなきも、こなきの兄もがんぼが過ぎると、父に抱えられて放り込まれた。
泣き叫ど泣き叫ど、父はしばらく放置し子どもらに罰を与えた。
そう言えば、背中にウマ乗りになって「やいと」と据えられたことも多々あった。

市内の工場で働く父は夜勤もある仕事であったが、働きながらも田を営んでいた。
子どものこなきは当時は何ともそのことを思ってはいなかったが、いま自分が働く身になってみれば、交代勤務で働きながら兼業農家するなんて、本当に良く働いていた父だと改めて思う。

そんな父を支える母は江田島出身の小柄なひと。昔の人らしく、茶、華、琴の資格も持っているが、もっとも今ではそれらを「道」として行うことは無いようだ。
一時期、ミツトヨでパートとして働いていた時期もあるが、勤めが合わないようで長続きしなかった記憶がある。

こなきが小学校に入る頃か。
水田の周囲も宅地化が進み、地上げされた土地に周囲を囲まれた結果、田に「塩がでる」らしく稲が育たなくなってきた。
元々、広は海だった場所。だから塩気(しおけ)のある土地でも育つキャベツ「広甘藍」の栽培が盛んだった。もっと塩気の出る土地ではそれもままならないので、レンコンを栽培していた。今のジャスコのある場所が正しくそれである。

挙句、うちも遂に田を辞める時が来て、埋め立て地上げした。数年後、その場所に家が建つ。今の両親の住む家であり、その時、こなきは小学5年生だった。
それまでの古家はかなり古かったが、借りたいとわざわざ言いに来られた方がおられ、貸家としてしばらく住まわれた。
が、便所も汲み取り式、風呂は五右衛門となれば、当時と言えども何かにつけ暮らすのが面倒だったであろう。
暫く後にその方も去られて、長らく空家となっていた。

こなきが仕事に就き、自分でも意外な程に早く22才で結婚。共働きも4年ほど続けた後に、長女が生まれる。
その頃になると、古家もいよいよ傾いてきて、隣家のご迷惑になってきつつあるので、取り壊すと父が言う。同じ壊すなら、この際に…
って、今思えばとっても早々に… 家を持つこととなった。同じ35年ローン背負うなら若いうちの方が良いから。
などと焚き付けられたものである。

前置きがとても長くなったが、両親の住む実家に帰った。
くるぱんも「たまにゃー帰って、顔見せてあげんさいや。孫やアタシが行くよりも、息子の顔見たいんじゃけぇ」っていつも言われてた。
確かにしばらくの間は帰ってなかったな…。 休みの都度、何かのイベントがあったり趣味に興じたり。

父は定年後、吉松山のふもとで畑をやるようになり、ちょくちょく野菜を持ってきてくれるが、母はなぜかウチには滅多に来ない。
そんな母が日曜の朝、珍しくやって来た。

「夏休みじゃけぇ、子どもらにジュース代が要るじゃろう」って言って、孫に小遣いを呉れた。
んじゃが、そんな用事だけじゃ来んじゃろ。
顔を見に来たってのが正しいのかと思ってたら「お父さんが暑さでバテてねぇ~」って言ってる。
顔を見せてやってや。ってことか。

缶ビールとつまみを買って行ってみる。
やんわりと冷房の効いた居間で、父は横になってテレビを見ていた。

ステテコ一丁で横になっている父は、四肢や上半身を見ると、驚くほどに痩せ細っている。アバラ骨もガリガリである。いや、以前から痩せたなぁ~とは思っていたが、ここまで痩せていたとは驚いた。
しかも、夏バテと言うには、ちょっと疲れ過ぎている。山の畑が、もう何度もイノシシに荒らされたってのも落胆の一因のようである。

ちょっとイヤな想像がアタマを過る。

そんな様子を察して、母がランニングを持ってきた。
痩せちょるけぇ~、シャツ着んさんや。
細やかな気遣いも長年のつきあいならでは。

久しぶりに会ったと言っても、会話の内容に目新しいものもなく、いつもの会話。
仕事は忙しいんか。まだ自転車で通ってんのか。子どもらは夏休みの昼飯はどーやってんのか…など。

そんな会話の途中で、母がボソッと言う。

ここまで人生生きて来て、思い返して、どの時期が幸せだったかと考えたら、子育てしていた時期が一番幸せじゃったんじゃないかと思うんよ。確かに忙しかったけど、あの頃が一番幸せじゃった。

そか。

取り止めも無い会話してから帰った。

もっとちょくちょく顔出しに行かんにゃいけんの。
で、ワシらも今は忙しくしてるけど、これって幸せな状況なんじゃの。
って思う。

振り返って「あの頃は良かったのぉ~」って思うことが少なくも無い年になってきたが、人生まだまだ折り返し地点。
これから先もいい事も悪いことも沢山あるだろう。

今の幸せな時期、しっかりと脳味噌に残して行こう。
な、くるぱん。

父 昭和11年2月27日生まれ
母 昭和10年9月17日生まれ

まだまだ元気でいてください。

 

6件のコメント

  1. こんばんは。
    ご両親も同級生なんですね。
    ウチと一緒だわ~。
    親孝行 したいときには 親はなし
    だったかしら。
    自分が親になって初めて、大きな愛情を注いでもらっているんだって
    しみじみ思います。
    顔を見せるだけ、話を聞いてあげるだけで、すごく喜ばれますよ :mrgreen:

  2. 親が亡くなってから、気づくのでしょうね。

    親孝行を自分は、したのかなーと。

  3. こなきさんのご両親への感謝の気持ちが改めて綴られたすばらしい文章ですね。
    一気に、ゆっくり読ませてもらいました。

    自分に子供ができて、初めて両親のありがたみが分かるもんですよね。

    ご両親が健在の間に、いろんな感謝の気持ちが出てきたのは、ある意味幸せなことじゃと思います。
    しっかり親孝行してあげてくださいね。

  4. 心に沁みる。。。日記でした。
    うちは今~もう介護の問題が起きてますから。
    ちょっと、ガンコな親に腹が立っていたから。
    などなど・・・
    うちのお客様も、みんな言う~
    子育ての時代がなつかしいと!!!
    ねぇ、こなきさん、
    夫婦で。。。がんばるわ!!!

  5. うちの親もほぼ同年齢。
    残念ながら、もう片方しか居ませんが。

    自分の人生も、何となく先が見えてきたような気もしますが、
    親はもっと切実に余生って感じてるみたいです。

    と言いながら、今日も喧嘩してたりしますが(笑)

  6. ☆ ちゃかりん さん
    親と同じ立場になって、親の有難味が分かる。確かにその通りですよね。
    用事がなくても、もっと足繁く実家に行きたと思ってます。

    ☆ いっちゃん さん
    亡くなってからでは遅すぎるもんね…

    ☆ MAN3♪
    ありがとさんです。
    同世代、頑張って子育てしましょうぜヽ(´ー`)wヌ

    ☆ ナナママ さん
    介護云々になってくると大変でしょう。
    ウチは今のところは大丈夫みたい。だから、のん気なこと言ってられるんでしょうね。

    お子さん達も大きくなられ、子育てもあと少しですね。

    ☆ ちょう さん
    同居やとっても近い距離に居ると、普段の光景になっちゃって…
    ってのもあると思います。
    ウチはちよっと離れてるから、いいのかも。

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